岡山県産材の「木育」製品が好評
ホリグチは、真伍さんの祖父・堀口恭市さんが岡山県吉備郡真備町(現・倉敷市真備町)で1964(昭和39)年に創業しました。当初は木材チップと合成樹脂を貼り合わせたカラーボックスや花台などの小物家具を作っていました。
1980年、真伍さんの父・昭良さん(76=現在は相談役)が2代目社長に就任。オフィス家具メーカーにOEM(相手先ブランドでの生産)供給を始め、事業を拡大しました。現在では、木材や木製品との触れ合いを通じて木の文化に親しんでもらう「木育」に着目し、岡山県産のヒノキ材を使った「木育」製品が好評です。従業員数は27人、2021年度の売上高は約3.3億円です。
2010年に34歳で3代目社長に就任した真伍さんは、事業承継のモデルケースとして地元の経営支援団体が開くセミナーに登壇することもあります。リーマン・ショックでピンチに陥った家業を継いだ真伍さんは、どのように会社を立て直したのでしょうか。
特殊鋼メーカーに入社、営業職に
真伍さんは、姉と妹に挟まれた3人きょうだいの長男。子どもの頃は、自宅の隣にあった工場に出入りして遊んでいました。当時、工場で働く人の多くは近所の主婦たちでした。今でも近所のおばあちゃんから「昔、社長を抱っこしていたのよ」と話しかけられるそうです。
そんな和気あいあいの環境で育った真伍さんは「自然と、僕が後を継ぐものだと思っていました」と振り返ります。
大阪府の大学に進学する際も「いずれ家業を継ぐ時に役立つように」と経営学部を選びました。就職活動では「すぐに家業に入るより、他の会社で社会人経験を積みたい」と考えました。家具メーカーを中心に就職活動をしたものの「いずれ実家の後を継ぐのだろう」と思われ、30社以上面接を重ねてもなかなか内定に至らなかったそうです。
ところが、上場企業である特殊鋼メーカーから高評価を得て、最終面接を受けることに。大学の就職部からは「就職するなら3年は勤めるように」と念を押されました。父・昭良さんに相談したところ「お前、うちの会社に帰ってこようと思うなよ」と突き放されたといいます。真伍さんは「上場企業だったので『入社したら帰ってこないのでは』と不安に思ったのかもしれません」と振り返ります。
特殊鋼メーカーから内定を得ると、覚悟を決めて入社。大阪の支社に配属され、営業として取引先を回りました。仕事が忙しく、正月くらいしか帰省できなかったそうです。そんな様子を見て、昭良さんは徐々に態度を軟化。「いつ帰ってくるのか」と尋ねてくるようになります。
海外転勤か家業入りか、27歳の決断
就職して5年後、真伍さんが27歳の時、海外転勤を打診されます。「このタイミングで海外に行くと、数年は日本に帰れない」と悩みました。家業を継いで新しいことを始めるには、海外勤務を終えて帰国する30代前半では遅いと思ったのです。
昭良さんに相談しても「自分で決めろ」と返すばかり。結局、真伍さんは勤め先を退職し、ホリグチに入社する道を選びます。2003年のことです。上場企業を退職して岡山に戻ってきた真伍さんを、従業員や取引先は「よう帰ってきたなぁ」と歓迎してくれたといいます。
当時、オフィス家具メーカー向けにデスクの天板を製造するOEM事業が堅調で、昭良さんは広い新工場を建てていました。真伍さんはオフィス家具の営業担当として、取引先との交渉を担いました。
驚いたこともありました。事務部門が手書きの帳簿やファクスで注文のやりとりをしていたのです。真伍さんは帳簿や給与明細を徐々にエクセルやクラウドソフトに切り替え、効率化しました。
また、地元の人脈を築くため真備船穂商工会に加入し、同年代の若手経営者との交流も始めました。
「自社の価値も知らずに会社を継ぐのか」
29歳の時、取引先の経営者から後継者育成塾に入るよう勧められました。中小企業の経営改善を支援する岡山県産業振興財団が立ち上げた塾です。当初、真伍さんは「営業職として毎日忙しく、あまり気乗りしなかった」といいます。しかし、育成塾のある講義をきっかけに、「スイッチが入った」そうです。
「みなさんは自社の株価がいくらか、把握していますか?」――。講師である事業承継コーディネーターが発した問いでした。
一般的に、上場企業でない中小企業の創業家が、自社株の価格を意識することは多くありません。ところが、家業の後継ぎは自社の株価を知る必要があるというのです。
「講師の方に『自社の価値も知らないで、会社を継ぐ気ですか』と厳しく指摘されたんです。すぐに父に確認しましたが、やはり株価を把握していませんでした。そこで税理士に相談して自社株の価格を算定し、父から僕に贈与することにしました。相続税対策のため、毎年少しずつです」
この株式贈与は、2人の意識を変えたといいます。数字として目に見える形で自社株が真伍さんに移動することで、昭良さんには会社を少しずつ引き渡す実感が生まれました。真伍さんも将来の経営者としての責任をより意識するようになりました。
「自社株を譲渡することで、父と僕はお互い覚悟を持ったと思います。父が元気なうちに、少しずつ社長の責任を渡されていくプロセスはとてもよかったです」
育成塾で学んだ事例には、先代が急に亡くなり、引き継ぎが何もない中で会社を背負うことになったケースもありました。
「先代が急に亡くなると、周囲から『こういうふうに先代と約束していた』と言われても真偽が分からず、後継ぎはとても苦労するそうです。やはり先代が元気なうちに仕事を引き継ぐことが重要だと思います」
リーマン・ショックで「注文が止まった」
肩書なしの営業担当として入社した真伍さんは、2005年に専務となります。当時、首都圏で続く大型ビル開発により、オフィス家具の需要は旺盛でした。父・昭良さんはさらなる事業拡大のため、外注先の家具製造会社をM&Aで取得しました。ところが、買収先の全従業員5人を雇い入れた直後、リーマン・ショックに襲われます。
「びっくりするくらい注文がピタッと止まりました。2008年末には『やるべき仕事が1つもない』という状況まで落ち込みました」
結局、2008年度の売上は前年比37%減。M&Aで取得した会社を含めた数字なので「ホリグチ単体ならもっと減っていたはず」と真伍さんは振り返ります。
当時、ホリグチの売上の大部分を占めていたのは、大手家具メーカーのカタログに載っているオフィス用家具製品のOEM供給でした。リピート注文が多かったため、新規開拓や販路拡大のノウハウが育ちにくかったそうです。受注が激減する中、真伍さんはがむしゃらに取引先を回りましたが、なかなか仕事は取れませんでした。
父・昭良さんも苦渋の決断を迫られました。本来なら定年後も働いてもらうはずの職人さんを、再雇用できないこともありました。昭良さんは「若い力に任せよう」と社長退任を決意します。
こうして2010年、真伍さんは34歳で3代目社長に就任しました。ただ、難局は続きます。真伍さんは受注のため奮闘しますが、獲得した仕事の種類はバラバラで、時には利益のほぼ残らない案件もありました。従業員からは「社長がどこを向いているのか分からない」という声も出たそうです。
OEM依存に危機感、自社製品開発へ
その頃、地元の真備船穂商工会から経営支援の働きかけがありました。真伍さんは当初「それどころじゃない。会社を何とかしないと」と消極的でしたが、担当者が高校の先輩という縁もあって支援を依頼します。これが転機となりました。
2011年に策定した経営革新計画では、需要に波があるオフィス家具のOEM供給からのシフトを明確にします。M&Aで移ってきた婚礼家具職人たちの技術力を生かし、自社製品を開発する方向にかじを切ったのです。
まずは中小企業庁のものづくり補助金を受け、最新の木材加工機械を導入。ヒノキやスギのCLT(木材を縦と横に交互に重ねて接着した分厚いパネル材)を活用した製品作りに着手します。さらに岡山県西粟倉村から含水率を調整したヒノキ材を調達。生産量全国1位(2021年)の岡山県産ヒノキ材と婚礼家具職人の技術力を生かし、地元企業をターゲットにオーダーメイドの家具事業を始めました。
岡山県産ヒノキの用途は住宅用建材が大半で、家具を生み出すホリグチの取り組みは注目を集めます。地元の木材を通じた「木育」を前面に押し出し、公共施設や保育施設、介護施設など新たな販路を開拓しました。
ヒノキは軽くて柔らかい木材です。子どもも持ち運びしやすく、手触りが優しい点も喜ばれた、と真伍さんは考えます。
「保育園の先生方は、ホリグチの木育製品をとても評価してくださいました。他の園の先生方にも口コミで紹介して下さり、新しい注文も増えています」
2016年には売上高がリーマン・ショック前の水準に回復し、うち2割を自社製品が占めるまでになりました。地元の取引先が増え、従業員にも変化が生まれたといいます。
「今までは首都圏のメーカーに製品を出荷していたため、実際に使われる様子を我々が目にすることはありませんでした。しかし、今では公共施設や飲食店などで自分たちの商品を見かけるので、今まで以上に仕事に張り合いを感じているようです」
こうした経営改善の取り組みが評価され、ホリグチは2017年度の「岡山県経営革新アワード」でグランプリを受賞しました。
後継ぎは金融機関の人と交流を
同族経営の中小企業の代替わりでは、会長などになった親と社長になった子の間で、権力の2重構造が生じることがあります。どちらの指示を聞くべきか、従業員が混乱する場合もあります。ホリグチの代替わりはスムーズに進んだのでしょうか。
「父は社長退任後、会長に就きませんでした。一応、相談役という肩書きで会社に残ってもらったものの、ほとんど会社には来ず、1年程度で実質的に引退しました。先代が社内にいると、後継者は甘えがちです。それを避けられたのもよかったと思います」
昭良さんが早々に経営への関与をやめたことで、従業員も取引先も金融機関も、決定権を握っているのは真伍さんだとすぐ理解してくれたといいます。
若い後継ぎの中には「金融機関が苦手」という人もいます。真伍さんも、今まで昭良さんが担っていた金融機関との交渉を自分でこなすことになり、最初はとても緊張したそうです。
それでも真伍さんは、後継ぎは金融機関の人と積極的に関わるべきだと考えます。地元の金融機関にも「若手経営者の集まりや勉強会に顔を出してほしい」と伝えています。
「支店長クラスには言えなくても若い行員さんになら話せる、ということもあります。融資を頼む時に初めて顔を合わせるのではなく、若手同士でざっくばらんに将来の展望などを話せる関係を築くべきです。お互いが成長した時に、大きな仕事に結びつく可能性もありますから」
地元の町を襲った西日本豪雨災害
2018年7月、事業が軌道に乗りつつあったホリグチを、予期せぬ災害が襲います。東海から九州までの14府県で300人以上(災害関連死を含む)が犠牲になった西日本豪雨です。真備町では河川の氾濫(はんらん)などで70人以上が亡くなりました。高台にあった真伍さんの自宅とホリグチの工場は何とか浸水を免れたものの、従業員や取引先の多くが被災しました。
真備船穂商工会のまとめでは、真備地区の商工業者の8割が被災しました。商工会青年部に所属していた真伍さんは「個人宅の復旧は行政中心に進むだろう。我々は事業所の復旧を手伝おう」と決めます。県内外の商工会青年部や青年経済団体から駆けつけた多くのボランティアと被災事業者を結びつける役割を、地元に詳しい真伍さんが担いました。
被災から2年半後の2020年末には、被災事業者の約8割が事業を再開しました。一方で町からの転出も相次ぎ、人口減少の加速で売上不振に悩む事業者も少なくありません。さらに、2023年度末には堤防や河川の付け替え工事といった大規模な復興事業が終わる予定です。町に寝泊まりして食事や買い物をする工事関係者がいなくなってしまいます。
真伍さんは「町の関係人口(地域と関わる人の数)を増やしたい」と考えました。そこへ町内在住の自転車愛好家から「店先に自転車を安全に置ける場所があれば、サイクリストが立ち寄ってくれる。真備の復興の様子を自転車で見てもらってはどうか」と提案があり、地元の飲食店などにサイクルスタンドを寄贈することにしたのです。
ヒノキなどの木材にレーザー加工で店舗のロゴを刻印したホリグチ製サイクルスタンドは、サイクリストにも事業主にも大好評。真伍さんは「総社市や矢掛町などの周辺自治体も含めて、自転車で地域を周遊するきっかけになれば」と話します。これまでに真備町、総社市などの美容院、パン屋、うどん屋などに21基を寄贈しました。
行政の支援情報にアンテナを張ろう
社長就任から12年。ここ数年は、災害からの復興とコロナ禍が重なりました。ただ、首都圏での開発や東京五輪準備に伴うオフィス家具の需要が根強かったことや、地元向けの県産木材家具などで一定の売上が立ったことで、リーマン・ショックの時より打撃は小さかったそうです。
「西日本豪雨やコロナ禍を経験して思うのは、国や自治体の支援情報をキャッチするアンテナの大切さです。僕自身、コロナ禍では雇用調整助成金のおかげで雇用を維持できましたし、設備投資の一部を負担してくれるような補助金もあります。経営支援団体のネットワークに参加すると、こうした情報を得やすくなります。地元テレビや新聞の取材を積極的に受け、『今、こういうことをしています』と自社の情報を発信することも、経営者の大切な仕事だと思います」
真伍さんは木材の魅力について「アイデア1つで机や椅子、おもちゃなど、いろいろな形に加工できること」と語ります。
「お客さんから直接お話をうかがい、使いやすいよう工夫したアイデアを形にできるのはとてもうれしいです。これからも主力であるオフィス家具事業を大事にしつつ、岡山県産の木材の良さを伝えられるような、いろいろな製品を作っていきたいです」
からの記事と詳細 ( 「自社の株価を言えますか?」 ホリグチ3代目の意識を変えた講師の問い - ツギノジダイ )
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